白州の杜からブログ

本とコーヒーと犬との生活

白州の杜からブログは 令和元年9月1日からyahooブログから引っ越してまいりました。 どうぞよろしくお願いいたします。

 今朝のサンニチに明日開催の「北杜桜まつり」のチラシが入っていた。夜道雪という声優さんを呼んでいろんなイベントを開く。ただ、会場の「おいしい学校」ではまだソメイヨシノはほとんど咲いていないのではないか。暖冬予想で1週間は早めの開花を予定していたのだ。それはそうとこのチラシ、朝日新聞には入っていない。その逆もあるが、何故だろう。
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 県内の桜祭りは皆予定が狂った。私も2回ほど訪ねた富士川町の「大法師さくら祭り」は23日から(4月2日まで)始まったが,開花には程遠いと思う。。それと合併15周年記念ということで今年限りと思うが、週末の四日間は学校のグランドが臨時駐車場になる。公園までは無料のシャトルバスを利用することに。
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 歩けば20分くらいかかる。中腹や山頂に2千本の桜が広がり見応えがあるが、会場内に何箇所かある駐車場は500円の料金を取っている。これは平日に行った場合だろう。今まで料金を取られたことがなかった。夜のライトアップもあるし、誘導員を置いて安全を期すのも仕方がないことかもしれないが、私はどうも釈然としない。
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 桜の名所が観光の目玉になってきて、さらに客を呼ぶためショーアップされるなどの面もあるのではないだろうか。お隣り韮崎市の「わに塚のサクラ」は、「会いに行きたい一本桜ランキング」で全国4位に入ったそうだが、今朝のサンニチを見てビックリ、明日明後日は500円の有料観覧席を設けるというのだ。
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 たしかに一本桜のエドヒガンザクラは人を魅了する。富士山や八ヶ岳を背景に撮影できる。ただ桜が近年老齢化してきて、間近で見ると少し残念な寂しい風景になりつつある。そのために2、3年前に樹医さんが入り修復しているので費用も必要だろうが、有料観覧席とはなあ。

 観光客はますます増えるので、樹齢330年という老木の根は踏まれて傷んでいると思う。根回り3、6mというから5m以内には近づけない規制が必要ではと思ってしまう。それと欲を言うなら近くを通る高圧線を迂回させてほしいと思う。これがないともっと思い切ったポジションが取れると思うのだが。

 夜は特に妖艶なエドヒガンザクラ。この土日咲いてもチラホラではないか。今朝も強い雨が降り寒い。関西の連中は再来週に来ると言っていたが、Nの読みは当たりそうだ。来週週末が見頃になるのではないか。私は実相寺には毎年行くが、今年行ってみたいサクラ公園を見つけた。赤坂台総合公園である。
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 ソメイヨシノなど260本が植えられているらしい。双葉農の駅やブックオフに寄るため、国道20号線からGSを抜けて赤坂台総合公園近くを通っていた。だが、春の時期でも薄いピンクの森を見たことはなかった。初めてこの場所へ行ける。非常に楽しみ。まさか入場料を取られることもないだろう。静かに満開の下に佇みたい。死体は埋まっていないと思うが。

 今書いている時、滋賀のNから電話がかかってきた。四人のうち1人が足の病気で無理になったらしい。夏に延期と言われる。麻雀や桜にこだわらないとも言うが、4人揃うのを待っていたら、もう機会は来ないように思う。

 

 三木武夫という政治家を今の若い人はほとんど知らないとおもうが、1974年、首相を務めロッキード事件で田中前首相逮捕に踏み切った。自民党内の「三木おろし」にも動ぜず、いくつかの功績を残した。党内の派閥をなくす「三木答申」を出し、武器輸出三(禁止)原則を確立したことなどが挙げられる。

 当時の派閥の中で、三木派は憲法改正を声高に叫ばず、平和主義を貫くハト派のイメージがあり、三木武夫氏は金権と縁のない清潔な政治家と言われていた。だが、『語らざる占領下日本 公職追放から「保守本流」へ』(小宮京 NHKブックス 2022)を読むと違った経歴も見えてきた。
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 1907年徳島に生まれた彼は明治大学在学中にアメリカに留学している。1937年に無所属で衆議院選挙に当選。1942年の翼賛選挙では非推薦候補として当選。戦後は協同民主党など中道政党の指導者として頭角を表し1947年5月に片山哲内閣が成立すると逓信大臣に就任している。
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 芦田内閣退陣の際は山﨑首班か吉田首班かと政局が揉めた時、三木首班も取り沙汰されたという。ここまでの活躍は森財閥のバックアップで豊富な資金、英語力でGHQに食い込んだこと、平沢和重など知米派の支援が大きかったことなどを著者は挙げている。公職追放も免れている。

 ではなぜ彼がもっと早く首相になれなかったのか疑問も残る。田中退陣の後、クリーンな看板に変えようとして「椎名裁定」で選ばれたもので、保守本流のエースとして就任したものではない。組閣の際、宇都宮徳馬氏の入閣寸前までいったが、押し切る力はなかった。ま、その後の粘り腰は見事だったが。

 最初にあげた「武器輸出三原則」について確認しよう。三原則は1967年の佐藤内閣で共産圏諸国、紛争当事国などに武器輸出を禁止したもの。法律ではなく政令運用基準であったため曖昧だった。1976年の三木内閣の時には「武器輸出を慎む」という表現で武器輸出禁止をより強くしている。憲法の平和主義を維持する立場が色濃く現れた。

 1983年中曽根内閣の時は日米安保の面から米軍向けの武器技術を対象外とし、条件は緩和された。2005年小泉内閣ではアメリカとの弾道ミサイル防衛システムの共同開発生産も対象外とされた。民主党政権でも緩和が図られている。

 ここでいう武器とは、軍隊が使用するもので、本来的に火器を搭載する護衛艦、戦闘機、戦車を指していた。運用基準自体は解釈で変更できる。科学技術の発展で武器弾薬の開発も進み、何が武器かも規定するのも難しい時代になった。国内の武器生産も輸出できればコストも下げられる。「武器輸出三原則」を変更する内閣が現れた。安倍内閣である。

 2014年4月1日、「防衛装備移転三原則」を閣議決定する。12月22日には三菱重工業が生産する地対空ミサイル「パトリオット」をアメリカに輸出することを決定した。アメリカはウクライナを支援するためパトリオットを輸出するため在庫が少なくなる。その補充先を日本に求めた背景がある。

 アメリカがウクライナに供給したパトリオットは2023年5月6日、ロシアの極超音速空対地ミサイル「キンジャール」の迎撃に成功したと言う。アメリカに輸出されるミサイルがウクライナに供給され使用される日も近いかもしれない。(次回は戦闘機輸出について考えたい)

 ひとは死期が近づくと、昔の出来事が蘇ってくるのだろうか。日曜夜、85歳になった姉から電話があった。年齢を感じさせない、いつもの張りのある声だった。開口一番、贈ったリンゴどうだった?お店で一番良いリンゴを送ってと頼んだんだけど、と言う。
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 えっ、いつのことだろうと私の記憶を探る。確かに贈ってもらったことはあった。あれはいつのことだったのだろう。思い出せないまま、とりあえずおいしかったと返事する。よかった、Aさんが喜んでくれたわね、と姉。Aとは私のツレアイで、10年前にガンで亡くなっている。

 最近は昔のことが思い出されてばかり、気になることをたくさん出てくるのよ。この間も散歩に出たら、ジャッキーみたいな犬を見かけて、もっと散歩させてやればよかったと想い出して謝ったのよ。えっ、ジャッキー?いつの話?わが家の三代目ジャッキーのこと?

 私の学生時代、吹田の姉の家に居候していた。この時に飼っていた犬のようだ。私しか散歩させる人間がいなかった。京都から戻る私をジャッキーはひたすら待っていた。路地に戻ってきた私の足音だけを感じて帰還を知って喜んで吠えた。私は彼と一緒に河原に急いだものだ。

 この初代ジャッキーを今頃になってもっと散歩させてやればよかったと嘆く姉。今から50年以上前の不本意な出来事が甦っている。私は聞いていて姉の死期が近付いたのかとも思った。走馬灯のように昔のことがフラッシュバックすると言うではないか。涙が浮かんできた。

 だが待てよ、開口一番、ツレアイに贈ったリンゴのことを聞いていた。10年前のことを昨日のように話している、つまり時制がずれているのではないか、と考えだした。あの病気が始まっているのかもしれない、と。10年前の出来事をつい昨日のように話すと言うではないか。

 その後も姉は、広島から遊びに来たおばあちゃん(姉と私の母)を私が仕事で忙しくどこにも連れて行かなかった。新大阪駅での見送りも息子に任せた。そのことで娘に今も言われ続ける。その後、母は広島で亡くなった。おばあちゃんに申し訳なかったと嘆くのである。

 姉のスマホは通話フリーの契約だから、姉の方から私にかけるようにしてもらっている。娘が近くにいるものの、普段はマンションに一人住まい。いや、呼びかけると言葉を返す犬がいるだけだ。吹田のジャッキーと呼んでいるお気に入りだが、愚痴の相手にはならないようだ。たまにある電話だから、私が受け皿になっている。いつでも電話してほしいともいっている。

 姉は大阪都島区のうまれで私と7歳違う。間に3歳違いの兄がいたが、この兄よりも姉と親しく今もつきあいがある。私は幼少時代をよく覚えていない。父がレンガ工場経営に失敗し雲隠れ、押し寄せた借金取りが家に押しかけ私に親父はどこへ行ったと聞かれたことぐらいしか覚えていない。

 年が離れているので姉はこの頃のことを覚えているのではないか。今度電話がかかってきたら、私の幼少時代についての思い出を話してもらおう。昔の記憶を探ることで人を生き生きになる療法もあったはずだ。若い時は歌手の三沢あけみに似ているといわれた姉には楽しい思い出も話してもらおう。

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