白州の杜からブログ

本とコーヒーと犬との生活

2014年03月

   例のマレーシア航空機は、依然として機体を回収できていない。最初、ぷっ
つりと通信が途絶えたのは、マレー半島カタバルを通過した後であった。カタバ
ル、懐かしい名前が出てきた、と思った。昭和16年12月8日、日本は米英を
相手に開戦した。真珠湾が有名だが、香港、グアムあるいはマレー半島の
突端、シンガポール攻略の戦いがあった。
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 攻略にはマレー半島を縦断する線路と幹線道路を押さえる必要がある。
英領カタバル、タイ領三箇所から上陸する予定だった。大艦隊が密かに向う
途中、7日夜、イギリスの飛行艇に発見されたが、日本の戦闘機がこれを撃墜
た。英軍に発見されることなく、ここでも奇襲が成功することになった。
 
 英軍が待ち受けるコタバルに日本軍が上陸を開始したのは、8日午前1時
30分であった。アメリカ・ハワイ真珠湾が奇襲を始めたのは、それから約1時
間後のこと。12月8日といえば、真珠湾攻撃が浮かぶが、先にマレー半島
攻略が先である。
 
  コタバルはこういう背景があるのだが、今の若い人にはピンと来ないだろ
う。ところで、3日前に、作家伊藤整や永井荷風の日記を紹介して、8日の
帝都の雰囲気が、思ったより静かと感想を書いた。その理由が、『真珠湾
の日』(半藤一利 文芸春秋 2001)を読んで、氷解した。
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  当時テレビはなく、ラジオと新聞でニュースを国民は知った。午前7時の
臨時ニュースが伝えたのは、「西大西洋で米英と戦闘状態に入れり」というも
のであった。開戦の事実を知ったが、どこで始まり、勝利したのかどうか、
この時点ではわからなかった。期待と不安が同居していただろう。
 
 10時40分には、「香港攻撃」のニュース。12時には、昭和天皇の「宣戦の
詔書朗読」と続く。そして13時、「ハワイ真珠湾攻撃」を伝えた。ここで日本
国民は、アメリカ本土とは言わないがアメリカを直接攻撃したということで、
一気に国民の熱気は上がった、という。
 
 午後8時45分の臨時ニュースで、軍艦マーチをバックに日本の大勝利が
伝えられた。これで日中戦争の行き詰まり、ABCD日本包囲網で感じていた
日本人の鬱屈した感情は解き放れることになった。
 
  以上の経過を踏まえないと、12月8日の日記も読み違えることになる。
回想するエッセイでは、高村光太郎がお昼に対アメリカ勝利に感激する文章
を残しているが、半藤氏の著書は「勘違い」と指摘している。
 
 戦後の記録でも、『あの戦争<上>』(産経新聞社編集 2001)でも「午前
11時半、軍艦行進曲の前奏に続いて,ハワイ奇襲作戦の成功が報じられ
た」とある。大本営はもちろん知っていたが、国民はまだ知らされていなかっ
たのである。
 
 秋には、昭和の記憶プロジェクト主催の朗読会(「12月8日」特集)が開か
れる。実際の戦闘と国民が知る臨時ニュースを並べてみると、とても参考
になる。朗読一つでも、当時の状況を踏まえて読むことが求められていると
思う。 

   わが家の周りでは、まだ「ふきのとう」が見られないが、春の訪れを知らせる
樹がお隣の敷地にある。昨日、デジカメで撮ったが、まだまだ咲ききっていな
い。もっと、花開いてくる筈。それでも随分と暖かくなった。もう今日の雨で
残っていた庭の雪も溶けるだろう。
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 さて、暖かくなる春を待っていた例の患者が気になる。調子はどうだろうか。
家族に聞いてみた。今、ちょうど第2の抗がん剤TS-1の3クール目(4週間)
が終ったところ。飲み薬は2週間胃腸薬だけ。
 
 だが3月20日、昼に風呂を入ったが、その晩、少し熱を出した。そのせいか
どうかわからないが、それから調子が悪くなっている。
 
  食欲がなくなり、あまり食べられなくなった。食べても美味しくない、味が
わからない、という。吐き気も復活し、その週に一度吐いた。久し振りの嘔吐だ。
食べないからから4kg元に戻った体重も今では2kg減った。
 
  今は「お腹が痛い」らしい。盛んに訴える。2日前からは嘔吐もあった。
実際吐かなくても、ぜいぜいする音が響く。先週金曜は夜出かける用事が
あった。出かけようとすると、激しく咳き込んだ。まるで出て行くことを咎める
ようだったと家族は言う。その後、咳き込みは出ていない。
 
 昨日は、飲んだジュースを一気にもどした。今朝も吐いた。心配な状況だ。
特にお腹を冷やさないようにしているが、借りていた暖める器具が故障た。
代りに電気アンカを引っ張り出してきた。これでお腹を暖めている始末。
 
  先週、関西の友人から電話があった。友人は子宮ガンなどに罹り医者
から見離された。それでホスピスに入院したが、なんとか頑張り自宅に復帰
した。これを2度繰り返したという。とかくお腹を暖めろ、とアドヴァイスして
きた。
 
 その友人はしばらく音信がなかったが、こんな凄いことになっているとは
思わなかったと家族も驚いていた。おまけに、ご主人も今大変らしい。気
ついてみると、周辺でガンに罹った人がたくさんいることに気付かされる。
 
 家族は、第2クールの途中から副作用がなくなったのは、NK細胞を活性化
させる機能食品「アルビノキシラン」の効果かと思ったが、まだまだ不透明だ。
 
  2週間後には、今年2回目のCT撮影。この結果がどうでるか、それに
よって減抗がん剤、脱抗がん剤も考えて行きたいと家族は言っている。
暖かくなったら回復(体調が戻る)と期待していたが、なかなか順調に行か
ないものらしい。
 
 それでも春は早く来て欲しい。
 
  
 

  初秋の戦争作品朗読会(特集「一二月八日」)に備えて、当時の小説家など
の日記を読んでいる。『チャタレー夫人の恋人』の翻訳者として知られる伊藤整
(1905-1969)の「一二月八日」の日記は、意外と静かな当時の雰囲気を
伝えている。伊藤家のラジオが壊れていたことも面白い。
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    街は割にひっそりしている。所々行列あり。見ると皆菓子屋の前也。
   なあんという気もし、またちょっと不思議とも思う。
    バスの客少し皆黙りがちなるも、誰一人戦争のこと言わず。自分の
   そばに伍長が立っていて身体を押し合う。鉄ブチの眼鏡をかけた知的な
   青年なり。押しながら、「いよいよ始まりましたね」と言いたくてむずむず
   するが、自分だけ昂ふんしているような気がして黙っている」(『太平洋
   戦争日記(一)』(新潮社 1983)より。
 
 街はひっそりとしていると思うのに、彼自身が興奮しているように見える。彼
は英米との開戦ニュースを知って、実際叫びたいほどの感動を味わっていた。
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 日記にも書いているが、開戦の日の夜10時、都新聞の担当者が訪ねて
きて、文芸時評を「戦時の覚悟」に換えてほしいと頼まれた文章が「この感動
萎えざらんが為に」である。14日から17日に連載されたものだ。
 
    私は「ハワイ真珠湾軍港に決死の大空襲を敢行」という見出しなどを
   見て、全身が硬直し、眼が躍ってよく読めないのであった。その見出しと
   数行の文字だけで、もう十分であった。・・・
    支那事変を完遂するために英米を排除する、という理屈を、私は具体
   的な方法論として受け容れる。しかし、若し日本が英国や米国と戦うなら
   ば、それは支那事変をきっかけとして起こった已むを得ぬ事件とは決し
   て思われなかった。それは漠然と、それ以上の、大和民族の運命の前
   に横たわる大きな予定の一つのように思われた。・・・
    そうだ、民族の優越感の確保ということが我我を駆り立てる。これは
   絶対の行為だ、と私は思った。これは、政治の延長としての、または
   政治と表裏になった戦争ではない大和民族が、地球の上では、もっとも
   すぐれた民族であることを、自ら心底から確信するためには、いつか
   戦わなければならない戦いであった。
           『伊藤整全集 第十五巻』(新潮社 昭和49年)P162より 
 
 「大和民族の優越性」を信じる伊藤整が、宿命と感じたのは彼が文学者で
あると同時に英米文学者であったことも影響しているのであろう。当時も日大
芸術学部で教えている。英米文化に対する劣等感の裏返しの感情とも取れ
る。
 
 開戦当日の街の表情、特に東京が静かであったことは、永井荷風の『断腸
亭日乗』からも伺える。彼は、戦争に何の感興も湧かなかったし、あえて言え
ば、孤高を保っていた。ただ、冷静に、街の表情を捉えている。
 
 伊藤整の2冊は、北杜市郷土資料館(旧長坂郷土資料館)からお借りした
もの。市の「図書館検索」に「郷土資料館」が加わり、何を所蔵しているか、
PCで検索できるようになった。これは大変ありがたいことだ。伊藤整にしても
初期短編集など国会図書館でも貸し出さない資料もある。
 
 近くの図書館からリクエストすると、資料の保存状態を見て貸し出すとの
こと。ただ、検索事項の内容項目が物足りない。今、「高見順日記」のうち
昭和16年の分をリクエストしているが、数巻あるうちどの巻かわからない。
 
 そういうこともあるが、「山梨県図書館情報ネットワーク」と同じ方法で借り
られることは大変ありがたい。秋の朗読会に参加希望されているお一人は
担当した古川ロッパの日記が市内になかった、と書いてこられた。
 
  これはネットワークで検索すると『古川ロッパ昭和日記』(1~3巻)を県内
図書館がもっていることがわかる。これには年代で分かれているので
第1巻をリクエストすれば良い。このことをメールに書いたが、利用されたか
気にかかる。
 
 とにかく、特に戦前の作品を含む小説や個人全集がすぐに借りることが
できるのは、大いにありがたいことである。
 
     
 
 

  午後5時半頃、ご近所の方から庭で採れた「ふきのとう」をいただいた。昨年
3月6日ごろ初採取だったのに、今年は遅かった、だがここ2,3日でとても
多く採れたというのだ。そういえば、わが家の庭の雪も、ここ2,3日で急速に
溶けた。今朝のサンルーム温度は7度で、びっくりしたものだ。
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  ご近所で採れたものなら、わが家の庭にも出始めているのではないか、と
まだ外は暗くなっていないので、探してみた。いつも出るところは大体決まって
いるのだが、一つもでていない。入口近くに、赤い実をつけた草をデジカメで
撮れたくらいだ。
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 さて、苦味を持っているこの「ふきのとう」をどう食べるか。一つは、ミソ和え。
これは2,3個あればいい。ツレアイに作り方を聞いて、明日の昼食に出そう。
もう一つは、天ぷら。私が料理するようになってもう半年以上になるが、まだ
天ぷらは揚げていない。面倒な気がして、挑戦しなかった。一度、やってみる
か。
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  今、二晩連続して作ったものに、ほうれん草のおひたしがある。先日、元
お隣さんが横浜からやってきた。そのとき、簡単な作り方を教えてもらった。
切って凍らせたほうれん草に熱湯を掛ける。これだけである。これに大好き
な鰹節をかけて食べる。実に簡単。これで緑色野菜を目一杯食べられる。
 
 今日もほうれん草を買ってきた。いけない、新鮮なうちに切って凍らせん
だった。今からやろう。
 
  ほうれん草を切って冷凍することも忘れていたが、それも含めて物忘れが
ひどくなっているのを感じる今日この頃である。このブログを更新する前、歯
を磨いた。
 
 夜、歯を磨くときは必ず左目に目薬を差すことになっている。緑内障の進行
を遅くする「キサラタン」である。今まで、これを忘れたことはないと思って
いた。ところが歯を磨いたあと、PCに向った途端、目薬がまだだったことに
気付いてしまった。
 
 忘れたこともショックだが、歯磨きと点眼は必ずセットで実行していたという
積み重ねた事実が、実はフィクションに過ぎなかったことが明らかになった。
このことがもっとショックだった。認知症ではない。これが加齢の一つの現象
なのか。こうして人間は老いていくのか・・。呆然とする私。
 
 これをアップしたら、ほうれん草を忘れるな!

 昨日、孫の一人から手紙が届いた。封筒表を見て驚いた。小学1年生が書い
た宛先の住所と名前の文字だけが踊っていた。大人が記した宛先の文字は
ない。受けた郵便局の人がよく判読して宛先に送ってくれたものだ。ありがと
うございました。
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 中身は1枚のみ。好きな色紙の裏に、「げんきですか ふたりとじゃきい
(ジャッキー)にあいたいです」と書いている。一生懸命さが伝わってくる。あり
がとう。一人で書いて、出した(ポストにも自分で入れたのかな)初めての手紙
かもしれない。
 
 お返しに、先日ドッグランでジャッキーと遊んだときの3人のスナップをプリント
して送ろうと思った。ところが、印刷状態が悪い。赤系が出ない。青いモノクロ
写真。これは止めた。その代わり、他の写真をここで載せることにした。これを
見てもらおう。
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  小学4年、1年、幼稚園生と孫が3人いても、当たり前のことだが、みな
個性が違う。人の心を思いやると言う点では、この1年坊が凄い。これは
大きな長所だと思う。これからも伸ばしていってほしいと願う。
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 5年坊は、人との折衝がうまいように見える。人のどこを押せば自分の望み
をかなえてもらえるか判っている。世渡り上手。どの状況でも生きていける
だろう。さらにたくましさを加えれば、もっといいような気もする。
 
  孫たちからみてじいさんとなる私には、「じいさん」「ばあさん」がいなかっ
た。母が40過ぎで産んだ子だったからだろう。疎開した先で生まれたので、
既に亡くなっていたのか、一緒に疎開しなかったのか、判然とはしないの
だが・・。
 
 私は「じいさん」がいなくても、いないということを自覚していなかった。一人
息子にとっても、私の父親が早く病死していたので、「じいさん」は存在しな
かった。ただ、ツレアイの父が元気だったので、いろんな思い出を持っている
だろう。
 
 孫たちを見ていると、両親とは別に「甘えられる存在」がもうひとつふたつ
在ることの意味は案外大きいのではないかな、と思う。これから長ずるに
つれ何か困難にぶつかったとき、「じじばば」という逃げ道があるということ
は心の支えにもなる。両親にとっては、良くない影響もあるかもしれないが、
長い目でみてもらおう。
 
  三者三様、白州でいろいろ遊んだ記憶、小さな望みをかなえてくれた
存在して「じじばば」を覚えてくれれば嬉しい。私がこれから存在しなくなって
も、参る墓が無くても(大阪の墓に入る積もりなし)、孫たちの心に残ってくれ
だけでも、望外の喜びである。いつでもおいで。

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