例のマレーシア航空機は、依然として機体を回収できていない。最初、ぷっ
つりと通信が途絶えたのは、マレー半島カタバルを通過した後であった。カタバ
ル、懐かしい名前が出てきた、と思った。昭和16年12月8日、日本は米英を
相手に開戦した。真珠湾が有名だが、香港、グアムあるいはマレー半島の
突端、シンガポール攻略の戦いがあった。
攻略にはマレー半島を縦断する線路と幹線道路を押さえる必要がある。
英領カタバル、タイ領三箇所から上陸する予定だった。大艦隊が密かに向う
途中、7日夜、イギリスの飛行艇に発見されたが、日本の戦闘機がこれを撃墜
した。英軍に発見されることなく、ここでも奇襲が成功することになった。
英軍が待ち受けるコタバルに日本軍が上陸を開始したのは、8日午前1時
30分であった。アメリカ・ハワイ真珠湾が奇襲を始めたのは、それから約1時
間後のこと。12月8日といえば、真珠湾攻撃が浮かぶが、先にマレー半島
攻略が先である。
コタバルはこういう背景があるのだが、今の若い人にはピンと来ないだろ
う。ところで、3日前に、作家伊藤整や永井荷風の日記を紹介して、8日の
帝都の雰囲気が、思ったより静かと感想を書いた。その理由が、『真珠湾
の日』(半藤一利 文芸春秋 2001)を読んで、氷解した。
当時テレビはなく、ラジオと新聞でニュースを国民は知った。午前7時の
臨時ニュースが伝えたのは、「西大西洋で米英と戦闘状態に入れり」というも
のであった。開戦の事実を知ったが、どこで始まり、勝利したのかどうか、
この時点ではわからなかった。期待と不安が同居していただろう。
10時40分には、「香港攻撃」のニュース。12時には、昭和天皇の「宣戦の
詔書朗読」と続く。そして13時、「ハワイ真珠湾攻撃」を伝えた。ここで日本
国民は、アメリカ本土とは言わないがアメリカを直接攻撃したということで、
一気に国民の熱気は上がった、という。
午後8時45分の臨時ニュースで、軍艦マーチをバックに日本の大勝利が
伝えられた。これで日中戦争の行き詰まり、ABCD日本包囲網で感じていた
日本人の鬱屈した感情は解き放れることになった。
以上の経過を踏まえないと、12月8日の日記も読み違えることになる。
回想するエッセイでは、高村光太郎がお昼に対アメリカ勝利に感激する文章
を残しているが、半藤氏の著書は「勘違い」と指摘している。
戦後の記録でも、『あの戦争<上>』(産経新聞社編集 2001)でも「午前
11時半、軍艦行進曲の前奏に続いて,ハワイ奇襲作戦の成功が報じられ
た」とある。大本営はもちろん知っていたが、国民はまだ知らされていなかっ
たのである。
秋には、昭和の記憶プロジェクト主催の朗読会(「12月8日」特集)が開か
れる。実際の戦闘と国民が知る臨時ニュースを並べてみると、とても参考
になる。朗読一つでも、当時の状況を踏まえて読むことが求められていると
思う。