白州の杜からブログ

本とコーヒーと犬との生活

2014年05月

 久しぶりのパン。形はちょっと崩れたが、まあまあ。前回セット
する時は、バターが切れていた。代わりにチーズを刻もうかと
思ったがやめた。そのまま、バターなしでセットした。このあと
病院のA美に電話して正解だったことを知った。わずか1週間前
のこと。普通に会話できていた・・。
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 再入院してから1ヶ月目の5月18日(日)、CT撮影があった。
体重が急に増え、お腹がせり出していたからである。突然、あと
3回になっていた放射線治療が中止になった。新しい抗がん
も、まだ1回しか投与されていない。ドクターにお会いできたの
22日木曜の夜だった。
 
 CT画像を見ると、急激に増殖し、腹水がでてきた。放射線治療
は効果がないと判断した。新しい抗がん剤は、黄疸のデータが
高いので無理。このままで行けば、あと1,2ヶ月も持たないかも
しれない・・。
 
 すぐに個室を病院にお願いした。大部屋(4人)では長くいられ
ないし、話も十分できない。翌日から、一日病院で付添うことに
した。湖に臨む病院まで40km、1時間かかる。夕方、ジャッキー
の散歩と食事を済ませたあと、また病院に戻ったこともある。
 
  現在、治療と言えば抗菌剤、利尿剤投与が中心。実質、緩和
ケアである。再入院から2日目の夜から医療用麻薬の使用となり、
フェンタニルを胸に3日間貼り、モルヒネのオキノーム5mgを随時
服用。後者は6倍の30mgとなったが効かず、今は即効性が
あるフェンタニルの注射に変わっている。
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             <初めて見る花>
 A美の様態は、急に日増しに悪くなった。歩いたら危ないと
おむつと管が付けられた。火曜日朝、ドクターに呼ばれた。
「採血のデータがさらに悪くなった。このままの状態が続けば
2,3日で危ない状況もありうる・・」
 
  次の土日に孫たちが来ることになっているが、本人も「間に
合わん。早く呼べ」と喘ぎながら言う。息子は夕方駆けつけた。
義妹も、日曜日帰りしたにもかかわらず、再び新幹線に乗った。
 
 私はジャッキーをFさん宅に預かってもらい、息子と二人で泊まり
こむ態勢を取ることにした。水曜の早朝、少し話もできた。口に
含んだ水を自分で吐き出した。ナースも驚いたが、自分でベッド
を降り、ポータブルトイレも使おうとした。
 
 午後はまた、2,3日前の状態に戻った。だが、危機はひとまず
去ったように思う。体力があり、心臓が強いA美がそう簡単に
逝くはずがない。ジャッキーはひとまずわが家に戻そう。いつま
でも預かってもらうわけにはいかない。
 
 昨夜、わが家に戻ると真っ暗闇。いつも吠えたてるジャッキー
の姿もない。
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                       <土日はイチゴ狩り、だよ>
 「痛さを取るなら、死んでも良い」と前から話し、「痛い。殺して」
水曜5時、私に新たに訴えたA美。ここにきて痛みはやっと抑えら
れるようになってきたかもしれない。鎮痛剤2本分の注射で、
3,4時間眠っている状態。さらに安定剤の併用で、痛みを感じる
時間が大きく減っている、と信じたい。
 

例の患者の息子が
今現在の状況を伝えています。
様子を知りたい方は、ご覧下さい。

http://m.blogs.yahoo.co.jp/kai_net_0905

   「つるバラ」としてもらったバラを昨年、北庭のアーチに植えた。
だが、このバラはつる性ではなかった。今年、直径3mの範囲
でぼこぼこ広がった。ツレアイは、全部カットしてとの仰せ。で、
実行。ただ、最初のアーチの1本だけ残しておいた。それに白い
花が咲いた。
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  南庭では、高さ10cm前後のヤマツツジが頑張って赤い花を
咲かせていた。これからどんどん大きくなって、いっぱい咲かせる
ことができるのに、一輪でも早く咲かせたい理由があるのだろうか。
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 と思えば、長く咲き続けている花もある。シクラメンである。
昨年12月始め、ツレアイの退院祝いでいただいた鉢植え。
もちろん、1本が咲き続けているわけではない。だが、半年
以上代替わりしながら咲き続けているのには驚く。
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 花たちも頑張っている。彼女も彼女なりに頑張っている。私に
できることは、寄り添うだけ。二人の時間を共有することに今後
全力を挙げたい。ブログも休む場合も多くなるかもしれない。
 
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クレマチスの白い花がほぼ全開。紫の花をつける1本はこれからだ

  昨日は、巡回狂犬病注射の日だった。この連絡ハガキが見当た
らない。私の一番近い会場の時間は、HPを見ると9時45分から
10時30分の間。10時に行った。ベッキーに会えるかもしれない。
近くの神社に車を止め、歩いて向かった。
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 2年前に飼ってからは、動物病院で注射してもらっていた。市の
巡回だと3500円、割安になるという。初めて受けることにした。
会場の集会場前は車も多いだろう、という予測は外れた。
 
 会場を間違えたのかと思うくらい、車は一台のみ。この前は
結構、車で一杯だという。一番で並んだ人が多かったのだろう。
ベッキーとはもちろん会えなかった。残念。
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 ハガキを失くしたので、古い私宛の年賀状に「ジャッキー」と
書いて提出した。それでOK。注射は簡単に済んだ。すぐに
わが家に戻ったが、軽トラの車検で韮崎へ。代車は、三菱の軽。
かつて「広島市」で活躍していた車だった。
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 今度はその足で韮崎市立図書館へ。内海隆一郎作「朝の音」
をまた借りた。6月の「大人のための朗読会」で、わがサークル
は「朝の音」より<白い犬のものがたり>として5篇を読む。
 
 私は最後の「二匹の白い犬」担当だが、以前コピーしたテキスト
がどうしても見つからない。そこでもういちど原本を借りたという
わけだ。3枚分のコピーが目的だから、軽トラを今日引き取るとき
返却する。
 
 失せ物、忘れものが多すぎる。レベッカばあさんに飼われて
いた「魔女の猫」なら、すぐに探し当ててくれるだろう。わが
ジャッキーに、その代役を頼むのは、無理だろうか。
 
 
 「近代刑法ってなんだとと思う。完全な理性的な人間を前提にして罪と罰を
決めてる、特殊な思想なんだ。実際の人間は完全な理性的な人間なんか
じゃない。もしそんな人間がいたとしても、少なくともそいつはわけの分から
ない犯罪はやらない。」
                  朔立木(さくたつき)作「暗闇のヒミコと」より
 
 
 
 

  九州において今年3月23日放送された「命の滴(しずく)~記録
作家・林えいだいと特攻」(RKB毎日放送)が、6月1日(日)深夜
TBS放送「報道の魂」でオンエアされる。西嶋ディレクターから
メールが届いた。
 
 がんに冒されながらも、最後の命の滴を振り絞って、外道の作戦
「特攻」を調べる林えいだい氏の執念を追うドキュメンタリー作品。
九州の地で、地道に取り組む番組を是非ごらんいただきたい。
 
 その西嶋氏に、昭和の記憶プロジェクトで今年は「12月8日」
特集をする、とメールしたところ、DVD「伝えられなかった戦争~
コタバル 12月8日の真実」を送っていただいた。2012年12月8日
に放送されたドキュメンタリーだ。
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 昭和16年(1941年)12月8日。太平洋戦争が始まった日。
ではどこが戦闘の舞台になったか。多くは「ハワイ真珠湾奇襲
攻撃」とお答えになるだろう。
 
 だが、真珠湾奇襲より約1時間早く攻撃をした戦闘地域が
あった。イギリス軍が支配するマレー半島制圧を狙った「コタ
バル上陸作戦」である。先日のマレーシア航空機がコタバル
先で行方不明と報道された地点だ。
 
 真珠湾攻撃が8日3時19分(現地時間 7時49分)。第一波
空中攻撃隊が真珠湾上空に達し、「全軍突撃」(ト・ト・ト・・・・の
ト連送)の下命があった時間とされている。
 
 一方、コタバルは、コタバル沖の部隊が上陸艇でコタバル
目指したのが8日1時30分。上陸した部隊から「上陸に成功せり」
と電文が入ったのが2時15分、これを持って開戦時間とされた。
つまり、1時間以上、コタバル攻撃が早い。
 
 番組「伝えられなかった戦争」では、何故、最初に始まったコタ
バル上陸は忘れられたのか、をテーマにして、3人の上陸兵の方
から取材を始めている。
 
 一つは、「悔しいが真珠湾の方が戦果が華々しいのでしょうが
ない」とお一人が語っているように、真珠湾は大勝利、コタバル
制圧、シンガポール陥落は後になる。8日の大本営発表も、
夜、真珠湾大勝利を発表し、国民の大喝采を浴びた。
 
 また、最初「西太平洋で米英と戦闘状態に入れり」と発表し、
太平洋に面していないコタバルは報道されなかったことも大き
かっただろう。
 
 ただし、翌1942年には改定された教科書に「(コタバル)敵前
上陸」という文章が記載され、上陸部隊は英雄視された。画家
の中村研一氏は「コタバル上陸」という戦争画を描いている。
 
 さらに番組は、コタバル上陸後の日本軍の跡を追う。当時、
泥沼化した日中戦争下にあった。マレー半島は中国人(華僑)
が多く住むが、彼らはゲリラでもないのに、中国への募金活動
を行った疑いだけで逮捕・処刑された。
 
 上陸兵のお一人は、「処刑した。口外するなと言われた」と
証言する。家族を虐殺された方は70年経っても忘れはしない。
加害者である日本人はその事実すら忘れているのだが。
 
 敗後の昭和20年12月8日の新聞には「太平洋戦争史」の連載
が始まり、12月15日には「大東亜戦争」の語句使用をGHQは
禁じたとされる。翌年、社会科の新教科書「くのあゆみ」が発行
されるが、ここには「太平洋戦争」の文字。
 
 日本側は、「太平洋戦争」(対アメリカ戦争)という呼称の方
が都合が良かった。華僑虐殺やアジア侵略が曖昧になるから
である。こうしたアジア軽視・黙殺という日本の立場を番組は
浮かび上がらせた。
 
 一般国民は、アジア侵略の具体的な出来事を東京裁判で
知るところとなるのだが、GHQのコントロール下にあって日本人
自身の調査は不発。未だに東京裁判はアメリカのでっち上げ、
南京事件などなかったと主張する人たちが存在しているのは
周知の通り。
 
 この「伝えられなかった戦争」は、次回の昭和の記憶P例会
でみてほしいと思ったが、45分の長さでは無理だ。しかも、
私のパソコンではみることができなかった。わが家で上映会
を開こうか、と考えているところ。
 
 
 
  
 
 
                

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