白州の杜からブログ

本とコーヒーと犬との生活

2014年11月

  12時前に陽が射してきた。夜明け前から雨で、まだ散歩に出ていなかった。早速、外へ出た。ジャッキーはいつもの早朝散歩の様に2回ウンチした。午後の散歩はどうしようか。午後の散歩は夏以降、わが家近くを往復するか、ドッグランで過ごすか程度である。
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              <おやつをエサに写真を撮る。このあと食べずにハウスへ>
 このドッグラン内で、ジャッキーと私との新しい遊びが流行っている。彼女は買い与えたおもちゃにはあまり関心を示さない。ボール投げをしても気が向けば取りに行くが、持って帰ってくることは少ない。
 
 新しい遊びとは「異種格闘技」試合である。彼女のルールは、とびかかり、かむことである。私は「ボクシング」(のマネ)である。彼女に近づくと、猛然と走り回った後、私に向かって飛びかかる。私はステップバックしながら、左右と軽いジャブを飛ばす。
 
  立ち止り飛び出す左右の手をかもうと首振り状態になるジャッキー。時々はかわしきれなくて服が汚れたり、手首をかまれることもある。もちろん甘噛みだ。そうやって遊ぶのだが、もちろん長続きしない。私が疲れる。しばらく休んでから、また始めたりする。
 
  人に飛びかかるくせをつけるのは良くないという声もあるだろう。ただ人が苦手な彼女にとって、飛びかかるのは甘えることと同じ。私以外で飛ぶかかるのは、お世話になったFさんぐらいかもしれない。
 
  ジャッキーはこの遊びを気に入っているように見える。私がベンチに座っていると、何気なく近づき誘う、誘っているように感じる。で、誘いにのろうと立ち上がる。彼女は走り出しぐるっと回ってこっちに突進してくるのだ。
 
  秋が深まってからは、ドッグラン横を通って、沢を渡る。林道付近を
歩いて、また戻ってくる。先日なぞは、戻ってドッグラン横を通る時、彼女はドッグランへと引っ張っていく。「異種格闘技」試合をしたいのだ。私は彼女の期待にこたえたのは言うまでもない。
 
  先月のことだ。近くのYさんがお土産を持って訪ねてくれた。彼は「ジャッキーを放し飼いにしているの?」と聞く。「近くで見かけたよ」
とも。むろん、そんなことはない。フェンスを張ったテリトリー内を見てみるといない。ちょうど、道の方でジャッキーの鳴き声がしてきた。
 
 いつの間にか、北側の扉をゆすって抜け出していたのだ。長くて2時間くらい出ていたかもしれない。とにかくその時はわが家の近くにいて、よそのおじさんがわが家に近づいたので吠えたのだろう。
 
 ちょうど夕ご飯前だったので「ジャッキー、ごはん、ごはん」と誘導し
中に入れて、放し飼い問題は解決した。北側の扉は縄で括りつけた。
今回のことで、ジャッキーは放し飼いしても、あるいは逃走しても必ずご飯時間には戻ってくるという確信を得た。
 
 また戻ってきたという事実と確信は、私とジャッキーとの「異種格闘技」試合という遊びの存在が大きいと思う。この「試合」で、ジャッキーとの絆がより深まった気がするのだ。
 
 できるならばジャッキーをこのまま放し飼いにしたいし、できそうにも思えるが、そう簡単ではない。散歩のときにリードから放してやる飼い主も最近見かけたが、できるなら私もここから始めたい。でもなあ、彼女はまだ三歳半。遊びたい盛り。訓練もしていないのに、彼女との絆だけでは無理だろうな。
 
 朝の散歩は、雨天でも今日のように雨が止んだりして必ず実行できている。「試合」もあってジャッキーはそれほど体重は増えていないと思う。少し増えていたのは私である。運動不足とは考えにくいが、お腹が空いたという状態を最近はあまり感じない。今日もそれゆえ昼に外へ出たのである。
 
 今日の午後の散歩も、やはり沢を渡り戻ってから、ドッグランで「異種格闘技」を数ラウンドこなすかな。「KO負け」はともかく「試合放棄」に
ならないように。
 
 

   久しぶりに晴れた朝、7時頃に別荘団地入口に戻ってきた。入口のコナラの木だろうか、残った葉に朝日がさして輝いていた。わが家の
周りは、葉が落ちた裸木が多い。そんな中で、この2本は鮮やかにみえた。
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 2本の葉は取り立てて黄葉というわけではない。黄葉というと、銀杏の葉や楓のイメージが強いが、コナラやクヌギなどの落葉樹の褐色に変化した色も捨てがたい。落葉樹の森は、秋が深まるとまるで「燃えるような」という表現もオーバーではなくなる。
 
 そして、それは人生の黄昏も感じさせてくれる。黄昏ではなく、成熟と
言う人もいる。とてもプラス思考だ。若いと思えば若いのかも知れない。アンチエイジングにつながる考え方だろう。
 
  ただ、私にはやはり落ち葉が舞い、陽に照らされた落葉樹の森は
「黄昏」のイメージだ。あれもやりたい、これにも挑戦したいと頑張ってきたつもりだが、何一つ半端で終わっている。残された人生はもうわずか。
 
 今までの人生を悔いているわけではない。私なりに頑張ってきた結果が現在なのだから止むをえない、と自覚している。それでも一抹の寂しさを覚える。ともに老いる人を失ったのは痛い。それらを振り切って残りの人生を精いっぱい生きるしか道はないのだろう。
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                      <別荘団地に上る太陽>
 ジャッキーとの「異種格闘技」のことを書くつもりが、逸れてしまった。
身体の衰えはさほど自覚できないが、モノ忘れの進行は怖い。アルッ
ハイマー病だけはなりたくない気がする。4日前後で夕方ホームベーカリーをセットするが、3日連続それを忘れてしまった。朝、パンがないことで初めて気がつく始末である。
 
 

  今朝は早めに散歩に出た。雨の予想だったからだ。6時15分、まだうす暗い中歩いたのだが、既に降り始めていた。今日出歩く予定はないので雨は歓迎。日曜日午後からは、散歩以外では外にでなかった。遅れている朗読会資料に取り組んだ。
 
 やっと、A4・17Pの冊子が一応できた。12月7日午後の朗読会は入場無料だが、この資料を100円で購入していただく。必要ない場合は表紙のプログラムを差し上げることになっている。といって、黒字になることは絶対にない。
 
  印刷経費と出演者10人の弁当代を稼がなくてはいけないが、たかね図書館2階視聴覚室のキャパは無理して30人。満席でも赤字。しかも、広報11月号に告知記事が掲載されるはずだったが、担当の方が広報課に提出するのを忘れたということで、PRは図書館のポスターとチラシのみ。数人のみの入場者も覚悟している。
 
 昨年8月の朗読会は、市長さんがみえて1万円包んでくださって(きわめて珍らしいらしい)、3000円の黒字になった。この黒字分は、4月からの会場費でもうほとんど残っていない。
 
  だから頼みは資料の販売。昭和16年12月8日・開戦の日の大本営発表の臨時ニュースや作家たちのリアクションが、朗読を聞かなくてもわかるように編集している。この資料集単独でも販売したいくらいだ。
 
  ところで私の担当でもある坂口安吾(小説「真珠」)の作者プロフィールを載せるため、インターネットのウィキぺディアをみていたときのことである。彼は当時35歳の小説家、白紙(しろがみ)と呼ばれた
徴用には呼ばれなかったことはわかっている。まだ軍部の知名度もなかったのだろう。
 
 サイトには「1944年、徴兵逃れのため日本映画社の嘱託となり、記録映画『黄河』などの脚本を書いたが、映画化はされなかった」とあった。
 
 嘱託は徴兵逃れのためというのは事実だろうか。戦時中は執筆の機会が減り、1942年3月5日に大本営から発表された「九軍神」に感激して書いた「真珠」。これを表題にした創作集『真珠』も発禁を食らった。
 
 一部の表現が軍部に気に入らなかったということだが、睨まれて召集の可能性もあったのだろうか。「真珠」は前年12月8日真珠湾に突入し大きな成果を上げた五隻の特殊潜航艇乗組員九人(一人は捕虜第1号となり軍部は隠した)を讃えた作品。
 
 どの部分が時局に相応しくないということになったのだろうか。また、徴兵逃れとしたらこの発禁と関係があるのだろうか。とても知りたい。
これからもっと読み込もう。
 
 ところでもう一人、永井荷風の「断腸亭日乗」の12月8日分が私の担当。12月11日分も読んでいたら、ある落書きのことを書いていた。「屠れ英米我らの敵だ 進め一億火の玉だ」という標語に対して
次のような張り紙をみたと書いている。
 
 「むかし英米我らの師 困る億兆火の車」
 
 

   昨日は、市内の中世の山城を5か所見て回った。北部教育センター主催の「歴史連続講座」の第4回。今までは座学だったらしいが、今回は現地研修。初めて受講。天気は最高で、黄葉も楽しめた。なにより講師の方の話が面白かった。
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 曰く、時代・時代の常識がある。たとえば、戦争。食えないから略奪に出かけた。それが戦争。大義は後からついてきた・・。古文書がたまたまでてきても、それだけに頼っていてはいけない。でたらめかもしれない・・・。
 
  納得できる観方で、冒頭から話を聞いてさらに興味をました。マイクロバスで訪ねたのは、獅子吼城跡、旭山砦跡、笹尾塁跡、深草館跡、谷戸城跡の5か所。いずれも櫓や石垣が残る様な城ではない。整備
された谷戸城跡は土塁や空掘り、入口である虎口などがよくわかる。
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                <谷戸城跡・整備された空掘り>
 獅子吼城跡も平たい石を積み重ねた跡が残っているが、一人で出かけても城跡とはだれもわからないだろう。また山城の目的が、見張りや
狼煙台が中心である。城に籠城して戦うというものではない。発掘しても生活用品などは発見されていないだろう。
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            <獅子吼城跡に残る石積み>
 戦国の歴史に登場するのは、天正壬午の乱(1582年)のとき。甲州は武田勝頼亡きあと、織田側が支配。信長急死のあと、徳川家光の軍団が進出、新府城に布陣した。片や小田原の北条方も信州:佐久から進出し、若神子城、そして獅子吼城を拠点とし、対峙したわけだ。
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          <旭山塁跡・昭和初めの碑>
 徳川軍と和睦し、信州佐久へ撤退する際、築いた砦が旭山塁跡。
これを途中で放棄したから未完の城でもある。釜無川流域七里岩に
立つ笹尾塁跡も天正壬午の乱で登場する。
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            <谷戸城跡から見えた富士山>
 ただ、笹尾塁跡は、信州からの動向をチェックする砦。川向うの狼煙台(石尊神社)と対をなすそうだ。白州町には中山砦跡もあるが、これも狼煙台。すべて武田が整備したように言われているが、あまり信用
してはいけない、ともいわれる。
 
 全国には5万の城があると言われているが、大半はこのような山城
も入れているのだろう。北杜市だけでも凄い数だ。この山城や砦を観ていく上で必要なのは、当時の交通ネットワークだろう。
 
 現代の私たちは車社会で、国道・県道が整備されている。近世では
細い道でも峠を越えて町に向かうネットワークが中心。それがわからないと、山城や口留番所の位置が納得できない。獅子吼城の周りには
口留番所が3か所もある。全国的にみても珍しいらしい。
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  今回の山城見学で、いろいろなことを教えてもらった。個人的には
戦国時代の合戦の舞台となった廃城が好きだが、近辺にはない。それでも山城なりの郭(囲ったところ)、土塁(攻勢を防ぐ)、空掘り(侵入に備える)などをじっくりとみていきたい。
 
 今回参加費500円。マイクロバスに乗り、資料もつく。安くてうれしい。ただ定員20人だったが、実際は30人近い。説明する講師のそばにいないと、その声が聞こえてこない。せめてハンディマイク使用を希望した人も多かったのではなかろうか。
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                      <笹尾塁跡からみえる甲斐駒山>
 昼食は各自。私は初めて冷凍食品「焼きおにぎり』(6個)を購入し、
朝4個を温め持参した。笹尾塁跡の公園で、わが甲斐駒を見ながら食べたのだが結構おいしかった。これからくせになりそう。
 
  

   今朝は4時に目が覚める。左目が少し痛い。昨夜は、日米野球の最終戦をテレビで観てからベッドに入った。4時間近くテレビを観たのが原因だろう。ベッドでは、近藤史恵作『ホテル・ピーべりー』(双葉社 2011)を読み始めた。ハワイ島のホテルが舞台ということで、既に読了したミステリーであることがわかった。
 
 で、11時には寝入ったと思う。都合5時間は寝ているはず。それでも目が痛い。寒くてしばらくベッドでじっとしていたが、4時半にはトイレに行った。2日前、身体を洗ったジャッキーが寝室で寝ていたが、外へ出せと要求してきた。で、出してやった。一番寒くなる時間だが、凍え死ぬことはないだろう。
 
 そのままじっとしていたら、いつの間にかうとうとしていた。気が付いたら、外が明るくなっていた。6時半である。ジャッキーが外で吠えた。
「いつもより遅い、早く散歩に」という催促の声だ。
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  取り寄せたデジカメを手にして、外に出る。マイナス4度。寒いはずだ。この時間なら太陽はすっきり顔を出しているはず、と農道を下りていく。秩父連峰に雲がかかっていたが、やっと太陽が顔を出してくれた。
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             <山頂がのぞく甲斐駒>
 甲斐駒はじめ初雪はすでに降っている。八ヶ岳も薄く積もったが、今は溶けている。カメラを構える上北田縄文遺跡の上は、雪でなく全面霜に覆われていた。広がるこうした山々、そして遺跡の上が雪に覆われる日はもうすぐやってくるだろう。
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                                <八ヶ岳>
 7時前ともなると、車や人にあう。甲斐駒荘がある通りでははるか前を男性と黒い犬が歩いている。犬はリードをつけていない。三連休を前にした別荘の人だろうか。みかけない犬と人のように見える。
 
 散歩から戻るとテレビは全米の国土半分に雪が降った寒波を伝えていた。今年の日本はどうだろうか。寒さの中を歩いたせいか、目の痛みは今朝よりましになっている。
 
 寒さとモノ忘れは関係あるのだろうか。以前に書いたカーディガンは、昨日テニスバッグの底から見つかった。テニスコートで脱ぎ、忘れないようにとバッグにしまったことをやっと思い出した。思い出したことが凄い!お粗末・・。

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