白州の杜からブログ

本とコーヒーと犬との生活

2015年03月

   11時から高校野球準決勝が始まるので、朝のうちに最近発見された韮崎市の逆断層を見に行くことにした。発見場所を市役所に尋ねたが、報道した山梨日日新聞に聞いてくださいとつれない。探す時間を覚悟して早めに出かけたのだ。先に訪ねたのは、同市内円野(まるの)町で昭和16年に発見された円井(つぶらい)逆断層。
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  こちらは看板がでていたのですぐに現場に着けた。ただ、汲沢左岸の現場は発見されてから70年以上経っているので、断層破砕帯部分が分からずじまい。看板によると、2,3万年前の新しい地層に、1500万年前の古い地層が「押しかぶった」逆断層が見られた、ということだ。
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  次は隣の折居にある新発見場所に向かう。釜無川支流ということだが、まったくわからない。歩いているおじさんに尋ねると、すぐに教えていただいた。高川南沢川という支流を県道から西に向かったところだった。行きは通り過ぎたが、戻る時左岸の白い地層が眼を引いた。
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  河原に下りてみると、北杜市北部から韮崎市南部にかけて縦断する釜無川断層帯で露出した断層破砕帯が鮮やかに見えた。左側の灰白部分が古い地層。右側の礫層?が新しい地層らしい。先にみた円井の逆断層と関係があるのかどうかはわからない。ただ、この釜無川断層は地震を引き起こす活断層だという。この隆起をみると、過去に地震が起きたことは間違いない。

  私が住む北杜市白州はもともとフォッサマグナ上にある。釜無川活断層もこの上にある。知る限り現在まで大きな地震は起きていないし、富士山が噴火しても風はこちらに吹かない。比較的安全な地域だが、活断層はいつ直下型地震がおきるかわからない。この逆断層の発見が、災害予防に役立ってほしいものだ。

  

   今朝6時からの散歩コースとして久し振りに農道を選んだ。ジャッキーは参道・水路コースを選んだが、私が無理に農道コースへと向きを変えた。既に太陽が上がっていて、山々を明るく照らしていた。この山々を写真に収めようと考えたからだ。

  農道の中央付近で、甲斐駒、鳳凰三山、八ヶ岳を撮ったあと、林道につながる坂道に足を踏み入れた。坂の途中で、ジャッキーは座り込んだ。老犬・コテツちゃんがMさんと一緒に庭の中を歩いていたからである。彼はあまり眼がみえないはずであるが、元気に歩いているのが私も嬉しかった。
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  聞けば、今年初め、夜中に起きて30分位鳴き叫んでいたことがあったという。いよいよかと思ったが、獣医さんに連れていくと「認知症」と診断された。それからも夜中に徘徊して身動きできなくなり鳴くことがあった。道をまっすぐ歩くこともできなくなった、らしい。

  認知症の薬はあるが、使えば身体が弱っていくデメリットもあると言う。使わずに余生を過ごさせたいとMさんは考えておられるのだろう。
コテツちゃん、最後までがんばりやとエールを送りたい。
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  ところで、Mさんに言われた「(ジャッキーも)もう年ですか?」。わが家の娘は5月で4歳、人間でいえば20代後半、まだまだ若いですよ。彼女は今抜け毛の季節、毎日ブラッシングしているが、首周りなど抜けかけている毛がけばだっているように見えるから、そう見えたのか。ショックだなア。

   目下の課題は、西側のデッキづくり。解体で出た端材は揃えたが、作業にかかる前にすることがある。その一つは、寝室西側に面した薪置き場の撤去である。ここの薪を移動しなければ、デッキを張ることはできない。
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  昨日は、この薪を移動場所を確保するため、物置小屋の前に積んだ薪を北側置き場に置き換えた。今ある上に置けば簡単なのだが、今年使わなかった2年モノの上に1年モノを置くわけにはいかない。で、物置前の2年モノ薪を移動し空になったところへ、寝室横の1年薪を置き直した。
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  今日の前作業は、寝室の壁に沿って置いていた道具箱の移動だ。これを北側デッキの浴室前に移動すればOKと簡単に考えていた。ところが長さが177cmあり、柱が邪魔してすっぽり北側デッキに収まらない。

 で、どうしたか、丸のこで道具箱全体を一気に15cmほど切断しようとした。楽な方法と思ったが、そうは問屋が降ろさなかった。結局、枠組みや板をバラして切断して組み直した。おかげで2時間以上もかかってしまった。
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 できた道具箱兼ベンチには、道具などを入れなおした。これで20平方米以上のデッキを作る上での前作業は終わった。あと足りない建材を
購入し、作業にかかることになる。高校野球や昨日から始まったプロ野球のテレビ観戦時間も確保しなければいけないので、大変だ。

 そういえば、サンルーム工事も壁の一部、窓枠の一部はまだ着色やニス塗りを終えていない。一気にいかないと、ついつい後回しになってしまう。作ろうとしている西側よりももっと広い東側デッキも、連休前には一度塗らなければ・・。やることは多いナア。

   山梨UTY(TBS系)ニュース番組は、終戦70年でいろんな証言を放送している。今週火曜日は、「特攻志願の生き残り」のタイトル。元春日井町長の金井豊明氏の証言であった。金井氏は、海軍甲種飛行予科練習生、いわゆる予科練で、2回特攻を志願されていた。
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  昭和18年12月,日川中学から予科練に志願。土浦航空隊で練習生
1000名に、特攻志願のカードが配られた。希望は○、熱望は◎。金井氏は◎を付けたが100名のうちに入らなかった。特攻は飛行機ではなく、人間魚雷・回天とあとでわかった。

  上海、鈴鹿航空隊と変わったが、昭和20年6月、「航空特攻を志願する者、一歩前へ」言われ、金井氏は志願した。三角兵舎に籠って出撃を待っていたが、2ヶ月後に敗戦となった。志願したのは、天皇陛下のためというよりも、死なないと家族や故郷に対して不名誉になる、と話されている。

  戦争とは、最終的に人間が作る地獄であると最後に言われた。山梨
には甲飛予科練出身・14期生だけで、2005年現在254名の方がお元気であった。この中で特攻経験者がどのくらいおられるのだろう。

  今、8月の朗読会に向けて調べているが、特攻で飛んだが引き返したとかで生き残られた方も以外と多い。金井さんのように実行されなかった方も含めて、お話をじっくりお聞きしたいものだ。特に予科練出身者の方は、予備学生と比較して志願された方が断然多いのだ。

   昨日の午後、ふと窓の外を見ると、東隣の敷地のサンシュユが黄色くなっている。あれ、何時の間に咲いたのだろう。毎朝、散歩でこの木の前を通っているのに気付かなかった。ジャッキーが早く早くと引っ張るので、それに気を取られていたのに違いない。
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  今朝、写真を撮った。以前、蕾が膨らんだと紹介した木は、良く見ると柘植だった。サンシュユは、その隣にあった。位置関係は合っていたのだ。もっとも、私の知識といえばこんなもの、読んだ人は信用されていないと思うので、ま、いいか。

 それにしてもお隣のサンシュユはいつ咲いたのだろう。この辺では一番に黄色い花が咲き、春を告げる木だと思っていた。ひょっとすると、以前アップした中庭の黄色い水仙の花が先だったかもしれない。これを確認するのは、来年ということになってしまう。
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  花が咲く時期は、その土地で違うし、同じ地域でも標高が違うとまた
違ってくる。クリスマスローズもそうだ。あちこちでとっくに咲いているが、
わが家は蕾が2個だけ。なかなか開花しない。3月の初めには、今年無理なのかと思うくらい、遅かった。

  水仙にしろ、クリスマスローズにせよ、以前から植えられていたもの。
これ以上花は増えないと思う。増えるとすれば、トレリスに絡ませるつる性植物だろう。2本のクレマチスはサンルーム工事のために、あちこち切って別の場所に移した。これが順調に伸びてくれればよいが、駄目な時どうしようか。クレマチスは6月の代名詞。この時期にはっきりするだろう。

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