栃木県のある渓谷遊歩道沿いに露天風呂があった。旅番組のロケをしていた時である。カメラの前のタレントさんが遠くに見える露天風呂の方向に振り向いた。彼女はキャーと絶叫した。男女が一緒に浴槽に腰かけていたのだ。日本のどこでも混浴の風習が残っていることを彼女は知らなかったのだろう。
幕末から明治にかけて開国のためにやってきた外国人は日本の庭での人目をはばからない行水、銭湯での混浴、性的放縦と取れる妻妾同居・売春を各地で見て驚いた。キリスト教の倫理観からみれば未開の習慣で恥ずべきものかもしれないが、湿気が多い日本では人前で裸を厭わず、性を楽しみに生きていたという。
外国人は農村の高地まで続く棚田の田園風景の美しさに見とれ、人々の貧しいが明るい表情と勤勉な態度、見事な生産性に感嘆し、おとぎの国のように感じた。外国人は、中国などを経由してきたため、乞食がいない日本、質素だがきれいな住まい、親和性の強い人柄に魅了された。
渡辺京二氏が、当時日本を訪ね、滞在した印象記をほとんど読破し、現代歴史学の江戸時代研究成果を踏まえ、江戸から明治にかけての日本社会を見事に照射してくれた。『逝きし世の面影』(葦書房 1998)である。
それは私たちが映画やテレビドラマでみる江戸社会とは全く遠いものである。幕藩体制下の封建専制にあり、重税と厳しい掟にあえいでいる民衆の姿であると思っていた。だが、そうした見方は戦後のマルクス歴史学者が描いた決めつけに過ぎないと著者はいう。
確かに身分制の下で縛りはあったが、建前を破らなければ自由な暮らしがあり、人々は貧しいながらも明るく生きてきたという。例えば、納米。天領と藩領で差があったが、厳しくはなかったという。検知は秀吉以来行われておらず、古い台帳なので納米しても農家に余裕があった。
大名行列にしても、確かに殿様が乗っているかごには膝まついたが、カゴが過ぎるとサッサと行ってしまった。侍もそれを見ないふりをしたという。あるいは民衆は初めから近寄らなかったと外国人たちは見ていた。
民衆は封建制のくびきと身分制のしばりがありながらも、自由に生きていたと見えたのだ。
アジアの片隅で奇跡のような国で生き生きと暮らしている日本を見た外国人のオールコックなどは、開国(市場経済の浸透)によってこのかたちが崩れていくのは残念だと書いている。著者も「江戸文明」は失われたものと断定している。
農業だけでなく手工業が発達した江戸文明は滅びた事実は著者は指摘している。文明は滅びても、文化は残され継承されている。混浴もその一つと思う。リゾート地の露天風呂など出入口は男女別々だが、中は一緒というところも多い。若い女性も喜んで入浴している。
鎖国時代に築かれた江戸文明は崩壊して150年、グローバリズムに席巻される現代社会となった日本。アジアの片隅で今、年号が変わろうとしているが、天皇の名前さえ知らなかった江戸庶民の生き生きした暮らしを思い起こしてみたくなる。この本を読むと、違った江戸時代が見えてくる。