白州の杜からブログ

本とコーヒーと犬との生活

カテゴリ: 昭和の記憶P

 また午前3時頃に目を覚ます。雨の音を聞きながら、眠れないのでタブレットを開いてヤフーニュースをチェックする。それでも4時過ぎには少しウトウトした。突然、ジャッキーが、外へ出せというように吠える。これで起きることにする。5時を過ぎていた。レインコートを着て散歩に出る。強い雨は小雨になっていた。睡眠不足は今日も昼寝でカバーしよう。
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 ところで早朝に観ていたニュースは2週間目の関西テレビの番組。兵士と女学生の文通を描いた「終戦特集」。大正12年生まれ、現在98才の杉本智恵子(滋賀県甲賀市在住)さんは女学生だった昭和12年、先生に戦地の兵士に慰問の手紙を書くように言われた。この年7月に日華事変が起きていた。なるべく故郷に近い兵士にと割り当てられたのは、21才の砲兵・西浦治一郎だった。以後、文通を重ね彼からの軍事郵便は35通を数えた。
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 いつしか、結婚相手は西浦しかいないと思うようになった。「生きて帰ってください」とは検閲があるので書けない。故郷に咲く草花の押し花を必ず添えた。だが、西浦は砲兵から航空兵に志願し、文面も少し変化していた。無事帰還できれば結婚もほのめかせていた彼は「結婚を申し込むことは、航空兵を志願した自分の良心が許さない。若き日をお国のために捧げる。わが身は犠牲になる」と書いてきた。
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 その2か月後、杉本さん宅に訃報を知らせる手紙が届いたという。台湾からの帰途、事故で亡くなったとのこと。彼女の思いは届かなかったことになる。彼女は彼からもらった35通の軍事郵便を文箱に収め「軍事郵便につき閲覧禁止」を表に書いて、倉庫に入れていた。思い出も封印したのか。宛名は杉本姓。彼女はその後結婚しなかったのか。あるいは結婚するも姓を戻したのかは明らかではない。
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 もし独身を通したのなら、写真でしか知らない同郷と思われる兵士に想いをよほど寄せたのだろう。よく、幼馴染が出征して文通を重ねるも相手は戦死、その思い出を語る女性がいるが、戦後、結婚され孫までいる場合が多い。杉本さんの場合は、幼馴染でもなく面識もなかった若き兵士だったが、その一途な思いを貫かれたことになる。

 たしかに写真一枚で満州の花嫁になったり、見知らぬブラジル移民の男性に嫁いだりした例も多く、父親の意向が強かった時代である。それでも杉本さんの場合は極めてレアに近いのではないかと思う。彼が事故で亡くなった年月は明らかにされていないが、大東亜戦争前の日中戦争(支那事変)のころではないかと推測される。時代にほんろうされる人間は脆いが強い存在であることも再確認する。
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 昨日は朝練の後、富士見図書館に足を延ばす。休館かと思ったが「3日~13日まで臨時休館」のチラシをもらった。このため20冊貸し出しとあった。C.J.ボックスの最新刊『越境者』があったのでこれを借りた。日清戦争の資料も借りたかったが、新書、単行本でも見つからなかった。このあと「メガネのナガタ」に寄ったが水曜定休だった。

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  「いくらはなしかけてもなんにもしゃべってくれないのに ひとはまいにちいぬにはなしかけます けっしてふしぎなことではありません そもそもおしゃべりというのはいっぽうてきなものです」(『そら ひと いぬ』より)
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  『東京裁判』(日暮ひぐらし吉延 講談社現代新書 2008)はいかに自分が勉強不足かを思い知らしてくれた貴重な新書だった。来週私がリポートする近現代史読書会のテキストの第10章「東京裁判」と同じ著者で参考文献にあげられていた。それで苦労して読み終えたのだが、史料に忠実でいわゆる「史観」にとらわれず事実を追求する姿勢と実績に圧倒された。私のイメージを打ち破ってくれた点をいくつか列記しよう。

〇東京裁判は「文明の裁き」として最初事後法で裁こうとしたが、結果として個々の「捕虜虐殺」という戦争犯罪   
 への報復が中心。「勝者の裁き」というのは自明。だが、それだけで東京裁判を全面否定するのは正しくない。 
 「日本国」を「有罪」として裁いたものではない。パル判事などや東京裁判否定論者は日本の過誤を認めない
 「日本無罪論」は筋違い。

〇東京裁判は規範である「文明の裁き」と権力行使である「勝者の裁き」両面を併せ持つ「国際政治」であった。
  当時の最高権力者マッカーサー司令官も東京裁判をコントロールできなかった。

〇裁判官は11人だが、多数派の英米7人の判事が判決。7人が公判終了後60日間で「多数派判決」を書く。
 裁判長のオーストラリアのウエッブ判事も少数意見。最初からA級「平和に対する罪」C級「人道に対する罪」
 は事後法であるとして反対。

〇ドイツに倣って「共同謀議」を適用しようとしたが、日本では無理。ただし直接会っていなくても「共同謀議」は
  成立する。これが英米法。

〇A級、B級、C級は罪の重さではない。ドイツの交際裁判にもない級をつけ、A級戦犯は重要人物と日本人が
  みなすのは勘違い。

〇戦犯として逮捕される際ピストル自殺を図った東条英機は国民の憎悪を浴びた。被告たちが「自己弁護」を
 証言する中で、日本は無罪、開戦の責任は私にあると「国家弁護」を証言すると、一躍人気者になったこと。

〇私には無罪と証言しなかったA級戦犯で文官として唯一死刑になった広田は南京事件が起きた時の外務
 大臣。「不作為の罪」を問われた。
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 挙げていけばきりがないので、本書で意外な人物が登場したことを書き留めておきたい。まず日本人弁護団のトップ・鵜沢総明。この人は戦時中、神奈川県藤野の農家に疎開していた。20号線に面した藤田嗣治の疎開先農家の数軒隣であった。すでに書いたように昭和21年4月から始まった公判で検察側証人として犬養健が出廷している。のちの神奈川県知事になる長洲一二は翻訳作業にあたっていた。

  ところでこのブログでも何回も取り上げたBC級戦犯の飯田進。インドネシアで昭和21年オランダから捕虜虐待で死刑を求刑され、重労働20年の判決を受けた。彼は昭和25年に日本・巣鴨プリズンに収容されるが、講和条約が締結され、日本が独立国になると巣鴨プリズンの待遇が良くなり、自由に外出までしている。これはどういう法的根拠があったのだろうと不思議だった。これも本書で氷解した。
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  A級戦犯28名のうち7名が絞首刑となったが、残りは重光葵はじめ有罪だった。服役者の釈放が叫ばれ、講和条約発効後、徐々に仮釈放されるようになった。収監法などの拡大解釈である。鳩山一郎内閣が成立すると仮釈放に積極的になり、受刑者も抗議したので巣鴨プリズンの待遇を良くした。収監中の飯田進の写真があるが机の上には資料があり執筆している。

  A戦犯の賀屋興宣(のち大臣)は監房に電話を引き、池田勇人など政治家に電話しまくっていた。仮釈放の条件も緩み、会社まで通勤していたBC級戦犯もいた。帰ってくるのは巣鴨の監獄である。昭和31年にはBC級115名が残っていたが、8月15日、最後のBC級戦犯も仮釈放となり、そのまま刑が短縮された。飯田進もこのとき晴れて自由の身となった。こういう事情や世情は時代を生きている人でないとわかりにくいものだ。
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  同じ年に『東京裁判を正しく読む』(牛村圭、日暮吉延 文春新書)が出ている。これは対談をまとめたもので読みやすい。牛村氏は「日本無罪論」に否定的だったが、平成19年から「無罪論」にイエスと思うようになった。東京裁判は54の訴因があったが、被告は全員訴因に該当しないから全員無罪という「パル判決」は正しい。ただ裁判は「連合11か国」が「被告18人という戦時指導者個人をさばいた。「日本無罪論」にはくみしない立場。

  面白いのは今まで「文明の裁き」(肯定論)か「勝者の裁き」(否定論)かは不毛の対立というが、具体的に誰を指すのか書いていること。「文明の裁き」派は、①吉田首相など保守エリート②「全面講和」を主張した岩波系の「平和問題談話会」の知識層③一般国民(無関心か黙示的容認)を指しているといいます。特に牛山氏は丸山真男を資料の一部を故意に無視したと攻撃しています。古い話ばかりでした。

  1962年生まれの鹿児島大教授の日暮(ひぐらし)吉延氏は、現代の学会そのほかでも、肯定論と否定論が急ぎあい二者択一を迫るが(そんな論者がいるのだろうかという疑問が私にはあった。今でもあるの?)、東京裁判を批判的に検討しつつ国際関係の観点、日本の国益観点からとらえるべきだと主張する。

  3年近くかかった東京裁判で指導者は裁かれ、BC級裁判で4855名が裁かれたという犠牲の事実を卑屈にならず、また自虐的になるのではなく毅然と対外的に示すべきと訴えている。東京裁判の全貌解明はまだまだ進んでいないという。その後の成果もぜひ発表していただきたい。それともう少し読者がわかりやすい「東京裁判論」を書いていただきたいと思うがいかが?
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  今朝の参道コースでいきなりジャッキーが走り出そうとした。猫が近くの木に2mほど駆け上がった。暗いのでよくわからなかったが野良猫だと思う。4,5m先へ行ってから振り返ると、下に降りて行った。

    紅葉と言えばお隣の長野県富士見町にある「白林荘」内のカエデは今年どう姿を見せたのだろうか。「白林荘」は1万坪の庭を持つ犬養毅元首相の別荘で大正14年に建設されている。今年9月5日にお訪ねしたあと、記したブログには広い庭と趣のある建物を紹介した。元首相が使っていた部屋などを掲載したが、夫人が使っていた「離れ」の部屋はまだ触れていなかった。
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  管理人のKさんは建築当時の「離れ」は戦中御殿場に移転し、戦後、再移築したといわれる。贅を極めた作りで今回その一部を紹介しようと思ったが、写真はあまり撮っていなかったことがわかった。天井など一部のみ。そこで戦後の白林荘の変遷と息子の犬養健元法相について簡単に書いてみたい。
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  犬養健(たける)は1896(明治29)年、毅の三男として東京で生まている。白樺派の作家だったが、1930年の衆議院選挙で東京から立候補し当選、政治家の道を歩む。父・毅が首相になったときは秘書官を務めている。5・15事件で父が官邸に乱入した海軍将校に撃たれたあとも政治家を続けている。立憲政友会で活躍し、1942年の翼賛選挙でも父の選挙区・岡山から非推薦で当選している。

  戦後は日本進歩党結成に参加、総務会長に就任している。その後民主党に入党。新憲法9条を「傑作」と評していた。1947年に公職追放を受けるが翌年解除される(なぜ、パージにあったのか。鳩山元首相と同じとみなされたのか)。そして民主党総裁にも就任している。その後1950年には自由党に入党し、吉田元首相側に立つ。

  1952年には吉田内閣のときに法相に就任する。「末は博士か大臣か」という日本で「大臣」を務めたことになる。1954年、造船疑獄事件が発生、佐藤栄作自民党幹事長の収賄容疑で逮捕許諾請求が上がってきたが法務大臣として拒否した。いわゆる「指揮権発動」で、翌日辞任する。翌年、自由党と民主党が合同し自民民主党を結成するが、彼はこれに参加し顧問に就任する。そして5年後に亡くなる。享年64才であった。
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  『白林荘由来』によると、戦後の健はひっ迫していた。選挙資金もおぼつかない。健が外で産ませた女性の娘さん(安藤和津氏・タレント)の話では壺を売り後で母が買い戻したという。吉田内閣のとき山縣勝見厚生大臣が健法相の窮状を見かねて荒れていた白林荘を買うことになった。山縣勝見氏は白鹿酒造の辰馬一門の大番頭で参院議員。系列の内外汽船が保有し、現在も管理を受け持っている。
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  私は5・15事件で凶弾に倒れた犬養毅元首相に大いに興味を持っているが、三男の健にも大いに関心がある。最初、白樺派の作家として活躍しながら、父を助けようと政治家になる。父亡き後も政治の中心にいて大臣も務める。もっとも日本で一人しかいない「指揮権発動」者として名を残しているのは皮肉でもある。このために日本ペンクラブへの加盟は認められなかった。政治と文学の両立でもすごい葛藤があったのではないだろうか。

  神奈川県藤野町(現 相模原市)で『疎開した画家たち』の取材で、白樺派の作家・長与善郎が一番先に来ていたことを知った。長与善郎は犬養健の養父の弟にあたる。そんな縁でか、戦時中、健は蔵書を長与が疎開していた農家近くの納屋に疎開させている。戦後、これを取りに来たという地元の人の証言があった。当時はトラック輸送なので遠い白林荘(長野)ではなく、近くの藤野に疎開させたということだろうか。
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  ちなみに長与善郎の長兄は明治維新に功があった医者(夏目漱石のかかりつけ医者)であり長姉は松方大蔵大臣に嫁いでいた。長与の日記や自伝にはこの姉に関するやり取りが頻繁にでてくる。この閨閥の一族を知ることは近代の成立と苦悩を明らかにすることにつながるのだ。『東京裁判』を読んでいて証人になった犬養健の控室での写真が掲載されていた。A級戦犯の誰を証言しようとしたのかは明らかではない。
 

    私は「昭和の記憶プロジェクト」を通じて大東亜戦争を、3年前からは近現代の勉強を通じて主に昭和史を捉えなおしてきた。心がけてきたことは、現在からみた判断ではなく当時の状況下で物事をみるということだった。その意味では、当時の世相や雰囲気を伝える新聞を読むことは欠かせなかった。今も新聞折込は大好きだし、当時の紙面は広告や「撃ちてし 止まん」などの標語もたくさん掲載されている。
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  犬と一緒に疎開した池田さんの手記を朗読するにあたっても、当時の世情や出来事を新聞などでチェックした。彼女は昭和19年の秋にドイツのハンブルグ空襲について触れていた。この空襲は昭和18年7月24日以降行われている。この空襲が日本の新聞にどう伝えられたかを知りたかった。コロナ禍でライブラリーはくしゅうではレファレンス機能がNGだったが、職員の方が調べてくださることになった。
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  その結果、甲斐市敷島図書館から『昭和ニュース事典』を取り寄せ、ハンブルグ空襲は日本の新聞には昭和18年7月26日と翌年の7月8日に記事があることがわかった。7月26日と言えば、空襲直後である。『ニュース事典』には見出しだけでなく記事も掲載されているが、小さなべた記事。それでも大本営は盟友ドイツの劣勢をよく伝えたものだ。
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  報道はされなかったが、このハンブルグ空襲によって市内の有名な動物園が被災したことは、当局は重く受け止めていた。東京都に本格的な空襲が行われるのは翌年の昭和19年11月1日以降になるが、危機感と戦意高揚から昭和18年8月上野動物園に猛獣処分を命令する。あらかた毒殺、絞殺、餓死したあと9月4日に慰霊祭が行われ新聞発表している。
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  池田さんはハンブルグ空襲のどちらの記事を読んだのかわからない。あるいは読んだ人から噂を聞いたのかもしれない。どちらにしても当時の新聞記事を見てみたいと県立図書館に11月1日に伺った。発行日がわかっていれば縮刷版なりマイクロフィルムで検索しやすい。「古いものは両方ない、近くなら山梨学院大学にあるので知り合いがいたらその人に頼んだ方が早いですよ」という返事だった。
 
  縮刷版、マイクロフイルムどちらもないというのは驚きだった。私が以前相模湖を望む家に住んでいた時は、お隣の高尾にある八王子図書館に出かけた。DVD『藤野に疎開した画家たち』制作のときもマイクロフイルムを借りてコピーし、資料調べだけでなく映像として引用させてもらった(藤野観光協会からは5枚コピーを頼まれ先日お送りした。借りたメディアが返さないという)。

  県立図書館にないということは山梨の公立図書館で読むことはできないということ。『昭和のニュース事典』(昭和17年~20年)をみるが記事は分類されていて、当時の雰囲気は味わえない。国会のデジタル資料はライブラリーはくしゅうの専用機器で見ることができるようになったが、まだコロナ禍で使えない。もっともデジタル資料に古い新聞が入っているかどうかはまだわからないのだが・・・。
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  私は『昭和ニュース事典』の「金属」の項目から昭和19年10月12日に行われた「ハチ公の銅像も<応召>」という記事(10月13日発行)を見つけた。物資不足で銅・鉄回収のお役に立つことになり、12日午前11時過ぎ、簡単ながら別れの会が行われた」とある。別の資料でも修身教科書にも「忠義」が讃えられたハチ公が物資不足の折、率先して国の役に立つ姿勢を示して、国民に鉄・銅を供出するよう促す意味もあったと書いている。
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  この記事を見て、私が読む予定の朗読作品「シロの東京脱出」は、主人公がたまたま10月12日三鷹から渋谷を訪ね、駅前でのお別れ式を見守ったとする場面をイントロとすることにした。「押川(渋谷)駅長は帽子をとって『忠義者よ』と惜しそうな顔をする。神官が玉串を供え、ニヤニヤしていた物見高い連中も真面目な顔に還って行を壮んにした」と毎日新聞は伝えていた。その場の雰囲気がよく伝わっているではないだろうか。
 

   「Go To Eat」プレミアム付き食事券販売2日目 の今日、早速、北杜商工会に出かけた。10時からの近現代史読書会の後に寄るつもりだったが、富士見図書館に2冊の返却本あったので行きに買うことにした。場所が最初わからなかったが、以前、朗読教室が開かれていた会館で1階ロビーで販売されていた。待っている人はいない。甲府みたいに列の後ろに並んでもう1回購入する人もいなかった。
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  さて、読書会は『日本近現代史講義』の第7章、第8章。後半は森山優氏の「南進」と対米開戦~第二次世界大戦への道②。今回、これに合わせて『昭和史講義2』『日本はなぜ開戦に踏み切ったか~「両論併記」と「非決定」』(新潮社 2012)『日米開戦と情報戦』(講談社現代新書 2016)など著書に目を通しておいた。私にとって今までの定説やイメージがかなり覆される機会となった。
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  例えば、昭和15年7月から16年12月1日まで10回の御前会議が開催されたが、決まった開戦を含む国策は「両論併記」と「非(避)決定」の連続であったこと。北進・南進に固執する陸 軍・海軍、陸軍の軍務局と参謀本部、海軍の軍務局と軍令部、さらに外務省、首相などがぶつかり合い、統一された方針が決まらず(避決定)、北進も南進もと両論併記となる。

  昭和16年7月、日米開戦の引き金になった南部仏印武力進駐でアメリカが石油など全面禁輸措置をとると、予想していなかった日本。石油は平時で2年分、戦時で1年半しかない。日本は追いつめられるが、9月1日の御前会議で1.直ちに戦争によって解決 2.10月上旬までに日本の要求が決まらなければ開戦 3.臥薪嘗胆(何もしない、じり貧ながら情勢の好転を待つ)の3案が提案されている。臥薪嘗胆を主張した少数派がいたことも私にとって新鮮だった。

  東郷外相などが奮闘して外交交渉の期限を12月1日に伸ばした(11月5日の御前会議)が、ハル国務長官から出されたいわゆるハルノートが日本にとって決定的だった。私的な書簡とも、交渉案と一緒に提出されるはずだったとのちに明らかになっているが、中国からの撤退を含むアメリカの原則は軍部にとって受け入れられるものではなく、開戦に意思統一される。

  12月1日の御前会議で正式に開戦が決定される(太平洋艦隊は択捉島単冠湾をすでにハワイ真珠湾にむけて出港している)。決まっても「開戦の大義名分」がない。東条首相は昭和天皇に名分はどうするといわれるが、すぐに答えられない。ABCD包囲網による経済的圧迫からやむを得ず日本は戦争という「自存自衛」にする。戦略物資を売ってくれないから戦争に訴えるという論理は、内向きかつ独りよがりと首相は自覚していたという。

  あるいは日米戦争をアメリカから強いられた戦争とする「聖戦論」もある。日本は何も悪くないというわけだ。追い込んだのはアメリカだ、アングロサクソンだ。アジアを解放する正義の戦いだと開戦後に後付けされる。名前も「大東亜戦争」と。ちなみに作家の伊藤整は仲間から「白人対黄色人種の戦い」とは書かないように忠告されたという。軍部は白人相手の戦いにしたかったが、ドイツも、ソ連も白人だったから忖度したのではと書いている。
 
  これと関係するが日本が開戦と決めた日はいつかという問題も、「自存自衛派」の人たちは最後の御前会議(12月1日)と考えているらしい。実質9回目の「12月1日までに交渉が決まらなければ開戦」と決めた11月5日であることは動かせない定説だろう。ただ、報告されたE子さんは加藤陽子氏の著作を引き合いに出し「8回目、9月6日」と思われるとしていたが、どうだろう。
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  1962年生まれの森山優(あつし)氏は長年の開戦プロセスの研究によって数々の新鮮な定説を生み出した。ただ、ローズベルト大統領陰謀説を一蹴されているのは不可解と感じた。彼は日本の参戦を望み「一撃程度」があれば、アメリカ国民を参戦に持っていけると待ち構えていた。ハワイ攻撃という情報も手に入れているが、日本ができるわけはないと高をくくっていた面もある。ホノルルの部隊に情報を伝えなかった。

  この結果、2000の将兵と太平洋艦隊を失った。あまりに大きい代償だった。終わってから知ってましたと言えるわけがない。森山氏は日本は情報力で劣っていないと見直しを提言、アメリカも数々の失敗をしているとしている。真珠湾攻撃もその例としている。ただアメリカも強力だったがあまたの情報から正しい価値あるものを見つけるのはなかなか難しい。ローズベルト大統領は見落としたあるいは見損なった例ではないだろうかと私は思うのだがいかがだろう。ローズベルトの陰謀はあった!

 

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